初心者の覚え書き【宝塚】

宝塚についてたまに書くブログ

読んでも得るものは何もなし

宝塚の構造がわかったような気になった話

多くの宝塚ファンの方々がそんなこと最初からわかっていたであろうことに、今さら気づいた話。それが正しいのかどうかは知らないけども。

 

6月に上演される月城かなとさん主演の『THE LAST PARTY ~S.Fitzgerald's last day~フィッツジェラルド最後の一日』。ある日私はそのキャストページを眺めていた。役名の部分に「TSUKISHIRO」とか「MITSUKI」とか「AKATSUKI」という表記があるのを見て「?」となった。これはいったい何なんだろう? いやいや、わかってるってば。フィッツジェラルドは「月城」かなとさんが演じるんでしょ? ゼルダは海乃「美月」さんでしょ? わざわざ書かなくてもわかるよ?? しかもアルファベットで!
心の中でそう突っ込みを入れながらもどこかに違和感があった。わざわざこんなまどろっこしい表記をする必要はない。じゃあいったい何のために? でもその時は特に突っ込んで調べることもなくて、何かしらの意味はあるんだろうけど別に観に行かないしまぁいっかと放置してしまった。

 

その後月組の『カンパニー』『BADDY』を観たことで俄然月組に興味を持った私は、『THE LAST PARTY』がどんな話だか気になって調べることにした。『BADDY』を知る前は大して興味を持っていなかったくせにホントに虫のいいやつだよ私は。でも【BADDY以後】の新参者はみんなこんな有り様にちがいない。

 

ネットで調べてみると過去に上演されたときの感想などがいくつも見つかった。それらをいろいろと読んでいたら、思いがけずあのアルファベットの名前の謎が解けたのである。
今回を例にして言えば、月城かなとさんが演じるのは「フィッツジェラルドを演じるTSUKISHIROという役者」らしい。複数の方の感想を読んで総合的に考えるとそういうことになるみたいだ。とはいえ、そういった設定だと断定的に書いてあるわけじゃなくて、私がそう「判断した」というだけだ。実際この舞台を見たことがないので真偽のほどはわからない。
ただもしこういう構造なのだとしたら、なんだかまどろっこしい。普通に月城さん演じる「フィッツジェラルド」だけでいいじゃん、とつい思ってしまう。
舞台上では「フィッツジェラルド」だけでなく、「TSUKISHIRO」も登場してくるんだろうか? 見ていてややこしくなりそう。頭痛くなりそうな話だな。芸術的な観点から何かしらの必要性とか意味があるのかもしれないけど、きっと凡人な私には理解できないだろうなぁ。

 

とかなんとかごちゃごちゃ書いたけど、今回重要なのは別に「THE LAST PARTY」のことではない。
この二重構造を知ったとき、私はふとあることに思い至ったのである。
そうか! そういうことだったのか!と。

 

いったい何に気づいたのかと言えば、別に声を高らかにして述べるほどのことではないのだけど。それはつまり…

宝塚の方たちが全員芸名をつけるのは【宝塚歌劇団に所属している役者】を演じるためなのだなぁ、ということにふと気づいたのだ。そして私たちが劇場に足を運んで観ているのは、彼女たちが演じる【宝塚歌劇団に所属している役者】が、さらに誰かを演じている姿なのだ。そうか、そういう構造だったのか!と私はやっと気づいたのである。

あぁ、ややこしい。文章力のない私が書くと単純なことも複雑になってしまう…

 

常々思っていたのだけど、カフェブレイクの気になる下級生は?という質問で男役の方の名前を出すとき「○○くん」と君付けで呼ぶのがなんとなく違和感があった。
男役やってるけど女じゃん? だったら【ちゃん】付けでもいいんじゃね?って単細胞な私は思っていたのだ。
しかしこれはダメなのである。宝塚の構造から考えると、やってはならないことなのである。と勝手に思っている。

暁千星さんを【暁千星ちゃん】と呼んではダメなのだ。「渡辺麻友ちゃん」と呼ぶのと同じに考えてはダメなのである。確かに「ちゃん」か「くん」、どっちが妥当かと言えば【暁千星くん】の方がしっくりくる。

 

【山内亜里ちゃん】という女の子が【暁千星くん】という男(役)を演じていて、さらにその【暁千星くん】が『カンパニー』という演目で【長谷山蒼太】を演じている。これが正しい。

こう考えると、いつか書いた「愛称に本名が使われることの違和感」もすぐに解消されちゃう。

【長谷山蒼太】を演じている【暁千星】もまた演じられている架空の人物であるから、その中の人である【山内亜里ちゃん】から愛称をとって【ありちゃん】と呼ばれてもなんら問題はないのだ。

この二重構造に気づいて、いろんなもやもやがすっと晴れた気がしたよ。

 

こんなこと、聡い人なら深く考えなくてもすぐにわかることにちがいない。もしくはまったくの見当違いな気づきかもしれない。それか、私は深く考えすぎている。

そしてここまで書いておきながらなんだけど、途中から「こんなことどうでもよくない?」と思っている私がいた。

まったくもってどうでもよい話。