初心者の覚え書き【宝塚】

宝塚についてたまに書くブログ

読んでも得るものは何もなし

さん付け呼びからあだ名までの距離~とんでもなくどうでもいい独り言

ブログやツイッターで宝塚の方の名前を書く時、私は基本的に【フルネーム+さん付け】をしている。

あだ名で書くにはまだ早いよ、おこがましいぞ、もっと彼女たちを敬えよ、せめて1年好きでい続けられたら本物だから書いてもいいよ、でも好きになってすぐにあだ名を使うなんてホント「これだからにわかミーハーは」と罵られてもしかたないんだからね、とか考えてしまっている。

あきらかに考えすぎなのは重々承知だ。

 

初めて踏み入れた「沼という名の清らかな泉」で、どこが浅瀬でどこが深淵かもわかっていないのに、まるで何年もこの世界にいたかのような顔で先人たちの真似をして踏み荒らすのはよろしくないし申し訳ない。
一歩間違えればただの勘違いヲタクになってしまう。勘違いヲタクほど痛々しいものはなく、痛々しいと思われるだけならまだしも調子に乗るとたたかれちゃうよ、ということをAKBヲタをしていた経験上なんとなく知っている。

 

いや、こう書いたからといって別に私が勘違いヲタとなって他のヲタクからたたかれていたということでない。たぶんそうだと思うよ…。いや、きっとそうだと思う。そうだといいな。そうだといいね。

 

こんなこと考えるなんて警戒しすぎだと非難されるだろう。

あだ名で呼んだくらいでたたかれるとかおかしいだろ、と。

その通りである。

あだ名で呼ぶ呼ばないは個人の自由だ。他の人がどう呼ぼうが私には関係ない。これはあくまでも【私個人の話】である。

 

なにもあだ名で呼ぶことが悪だなんて微塵も思っていない。もしご贔屓の方ができたのだとしたら、さすがに私もあだ名で呼ぶだろう。当然である。
言い方は悪いけれど、その人のことをこれまでも、そしてこれからも金やら時間をかけて応援するのだから、親愛の情を込めてあだ名で呼ぶくらいしてもいいよねバチは当たらないよね、と。

 

AKBヲタ時代、私は所謂「単推し」という応援の仕方をしていた。とあるメンバーだけを推すのである。

握手会も基本的に彼女のものを取り、他のメンバーのものは数枚取るだけだった。秋葉原の劇場公演も基本的には彼女が所属するチームの公演しか行かなかった。他のチームは2~3回くらい。
あ、他のメンバーの握手券を取ったり他チームの公演に行っている時点で単推し感が薄れてるけれど、どうかこれは見なかったことに…。

 

最初そのメンバーのことはあだ名で呼んでいた。いわゆる一般的に通っているあだ名である。前田敦子ちゃんを例にとれば「あっちゃん」に相当するものである。

 

しかしヲタクというのは欲深い。握手会などで少しずつ話をして仲良くなったと勘違いし始めると、もうちょっと踏み込んだ関係を築きたくなる。
どういうことかと言うと、下の名前で馴れ馴れしく呼ぼうとするのだ。つまり「あっちゃん」から「敦子」へとステップアップしようとする。

 

私はクズなヲタクだったから、御多分に漏れずこの道を進んだ。
本人からも「別に下の名前でいいよ」なんて言われてしまったから調子に乗ったのである。彼女のファンは決して掃いて捨てるほどいるというわけではなかったから「呼び捨てすんな」なんて乱暴にあしらって拒否するわけがないのだ。調子に乗ったヲタクは悲しいかな、そんなことにも気づかない。

 

しかし他の男ヲタや女ヲタがまるで彼氏気取り、仲の良い女友達気取りで呼び捨てしてるのを見るにつけ、いやこれはないわ~、と気づいてしまった。過剰に反応してしまった。
いやいやうちらただのファンだし、距離感見誤りすぎだし、と思ってしまったのだ。
その結果なぜか私は推しのことを【苗字+さん付け】で呼ぶようになった。

 

なぜだろう?
どうして一般的な愛称に戻すわけではなく、下の名前にちゃん付けるわけでもなく、【苗字+さん付け】になってしまったのか…。

きっと一周回ってその方が近い感じがしたのかもしれない。
ダウンタウンの浜ちゃんがまっちゃんのことを「松本さん」と呼ぶみたいなものかなぁ。
いや違うか。いまいちこの理由はしっくりこない気もするけど、【さん付け】になったことで距離ができたという感じではなかった。少なくとも私の中ではそうだった。向こうがどう思ったかは知らない。

 

 

ここまで全く宝塚と関係ないことを書いてしまったけれど、こんな経験をしてしまった私はその後遺症のせいか、軽々しくあだ名で呼べなくなってしまった。もはや悲劇を通り越して喜劇である。

これは自意識過剰な私の性質が災いしているとも言える。私がどんな呼び方をしようと、誰も気にしないし誰も傷つかないし誰も喜んだりはしない。毒にも薬にもならないのだから好き勝手に呼べばいいのだよ。

 

今現在、気にはなっているけれどご贔屓までは至っていない芹香斗亜さん。
ご贔屓っていうのは一時の熱に浮かされた結果できるものじゃなくて、「気づいたらそうなっていたもの」だと個人的には考えているので、芹香斗亜さんは当分の間は【気になる方】である。

 

彼女の愛称が「キキちゃん」であることはもちろん知っている。しかし彼女を【キキちゃん】と書くことはできない。
恥ずかしくて書けやしないのだよ。無理だよ無理。
キキちゃんと書けるほど、私は彼女のことを全然知らないのだから。

 

新学期を迎え、去年隣のクラスだった顔だけは知っているような人と同じクラスになり、初日にいきなりあだ名で呼ばれても「え?なんでいきなりあだ名呼び?」と戸惑ってしまう。まだ何の関係も始まっていないのにそれは早すぎじゃないですか?とうろたえる。まず最初はさん付け呼びの方が自然じゃないかな?って思っちゃう。私の心が狭いのかもしれないけれど…。

私が芹香さんを「キキちゃん」と呼べないのはそういう感じに近い。
まだ何も始まっていないのだよ。まだ何も。


そして芹香さんを「キキちゃん」と書けないのと同様に、宝塚大劇場を「ムラ」と書くのにもなんだか抵抗がある。「ムラ」なんて書いた日にゃ、行ったこともないのになにが「ムラ」だよととせせら笑う自分が顔を覗かせるにちがいない。
ヒトじゃなくてモノにまで自意識過剰を発症している。もう重症である。ここまで来ると我ながら気持ち悪い。

 

とはいえ一度書いてしまえば、きっとまるでタガが外れたようにヲタク気取りであだ名やもろもろの用語を使い始めるんだろうなぁ、とも思う。
さん付け呼びからあだ名までの距離は遠いようで近く、近いようで遠い。


あ、私はきっとファンっぽい言動をすることに抵抗があるのかもしれないなぁ。
にわかである自覚があるから余計そうなんだろうな、なんて思う。
でも今の距離感がなんだか楽しくもある。

このなんだかよく分からない混沌とした感情はきっと今だけなんだろうなと思うと、それはそれで良きものだ。